2020/04/18

ブルースのお勉強再開 デルタブルース編

雨も降ってて野良仕事は出来ないし
世間的には、大変なことになってるので
これを機会にお勉強を何十年ぶりかで再開したいと思います

ぼくの場合は、何事も理屈から入るので
最初は、ブルースの歴史を振り返ることからはじめようかと思います

ぼくはブルースマニアではないので
自分の知識の整理的なまとめになります

ブルースはアメリカのミシシッピデルタ地区でうまれました
ミシシッピ・デルタMississippi Delta)は、アメリカ合衆国ミシシッピ州北西部のミシシッピ川とヤズー川に挟まれた領域である。この地域は「地球上で最も南部的な場所」とも言われる[1](「南部」はアメリカ合衆国南部を指す)。これはそこに特徴ある人種的、文化的、および経済的歴史があるからである。大きさでは、南北の長さ200マイル (320 km)、東西の最大幅70マイル (112 km)、面積約4,415,000エーカー (17,870 km2)、7,000平方マイルほどの沖積平野である[2]。当初は低地全体を硬木の森で覆われていたこの地域は、南北戦争1861年-1865年)前の時代に国内でも最大級に肥沃な綿花栽培地域として開発された。多くの投機家が惹きつけられ、綿花プランテーションのために川沿いの土地を開発した。彼らは黒人奴隷の労働力に頼る裕福な農園主となり、南北戦争よりもかなり前に黒人が人口の過半を占めることとなり、白人の2倍になるところも多かった。
まず川沿いの地域が開発され、鉄道の建設は緩りとしたものであり、南北戦争後となってもミシシッピ・デルタの低地の大半は未開のままだった。黒人や白人が地域に移住して来て、土地を買うためにその労働力を使って土地を切り開き木材を売った。19世紀が終わるまでに黒人農夫はミシシッピ・デルタ地域の独立農夫の3分の2を占めていた[3]。1890年、白人が支配する州議会が新しい憲法を成立させて、事実上州内の黒人の大半から選挙権を取り上げた。その後の30年間、大半の黒人は借金返済に窮し、政治的にも力を奪われたので、土地まで失うことになった[3]アフリカ系アメリカ人は生き残るために小作人に身を落とすしかなくなった。政治的に排除された状態は、1960年代に公民権法が成立した後まで続いた。
アフリカ系アメリカ人はブルースジャズという形で音楽を発展させた。デルタ地域の郡部住人の大半は黒人だったが、20世紀前半に起きた大移住時代に40万人以上のアフリカ系アメリカ人が、北部、中西部、西部の工業都市に移転して行った。
農業依存の経済では就職機会や事業機会も多くなく、地域は経済を多様化させるために懸命に努力する必要があった。製材業が重要であり、大型機械化農園主によって大豆など新しい農産物が地域に導入された。
  こんな地域で生まれたわけだ。
 ミュージシャンで言うと
チャーリー・パットン Charley (Charlie) Patton  1891年 - 1934年
ビッグ・ビル・ブルーンジー Big Bill Broonzy 1898年 – 1958年
サン・ハウス Son House 1902-1988
ロバート・リロイ・ジョンソン Robert Leroy Johnson 1911 - 1938年
アーサー・"ブラインド"・ブレイク Arthur "Blind" Blake 1896 - 1934年
あたりが重要な人物だ
この一連の草創期のブルースをデルタ・ブルースという。

チャーリー・パットンは、小作人の子として生まれデルタブルースの創始者と言われる。
ヒットしたのはこんな曲だそうだ。

まぁ・・・今聞いても・・・なんとも言い様がない・・・けどね

ビッグ・ビル・ブルーンジーになるとグッと洗練されて聞きやすくなってくる


これはいろんな人がカバーしてきたけど最近ではクラプトンが有名だね



彼のスタイルは
フィンガーピッキングによるモノベースやベースラインのドライブ感がすごい。

バンドスタイルでやったのも彼が最初だとか

シカゴスタイルのルーツになったんだと言われている。

サン・ハウスはダイナミックなスライド奏法でロバート・ジョンソンに影響を与えたという

 


ロバート・リロイ・ジョンソン は、恐れ多くて簡単に語れる人ではない。




ノーコメントだ。別項をもうける

ブラインド・ブレイクのラグタイム調のフィンガリングは見事と言うほかない
 
ため息が出る・・・

ブルース生誕100周年のイベントをスコセッシが映画に残している


以下
シカゴブルース編
中西部ブルース編
モダンブルース編
現代ブルース編と続きます

知らんけど・・・気が向いたら続きます